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死の準備について死ぬってことは人間みんなの目的であるっていうか、終着点であることには間違いない。死というのは突如来る暴力なんだね。その暴力にいかに準備しているか。それが必要だってことは、うすうすはわかるんだけれど、あまりにも儚いっていうか、空しい努力のような気がしてしまう。なにしろ死ぬことに対する対応だからね。
死はすべての終わり。それに対して何で準備してなきゃいけないのか。対応しようがしまいが、死ぬことは死ぬことで仕方ない。そう考えりゃ、準備なんかしなくたっていいじゃないか、と言う奴もいる。だけど、準備なんかしなくたっていいと言ってても、結局死というものには無理矢理対応させられるわけだよ。あまりにも一方的に向こうが勝手に来るわけだから。
それに準備してる奴としない奴と、死ぬことは結果的には同じだけれども、そのショックというのは半端じゃないんだよ。死を考える、死ぬための心の準備をするというのは、生きているということに対する反対の意義なんだけども、異常に重いテーマなんだ。
下手するとこれが哲学の究極の目的なんじゃないかって思うね。頭のいいのからバカから、金持ちから貧乏人から、人間全部に対しての問題提起なんだ。そうすると、バカでもなんでも対応せざるを得ない。そうしたとき、それの能力とか財産にもかかわらず、人間は対応する努力をしていかなきゃならない、と思ったんだ。
人生って、生まれながらにして死ぬ時のその対応の仕方をいかにして模索していくかが人生のような気がする。息抜きに色んなことをしてるだけであって、基本ラインは死ぬことに向って一直線に突っ走ってて、それに人間はどう対応するんだろうかってだけのような気もする。だからおいらにとって、今度の事故というのは凄いショックだったね。物理的なショックのみならず、精神的ショックがマグニチュード8という感じだった。
今回のおいらの場合奇跡がいくつも重なっている。死ななかった上に、脳も損傷をまぬがれたんだからね。あのまま死んでると何の問題もなかったかもしれない。
ところが生きたってことに対しては、今考えれば良かったなと思うけれど、良かったと思う感覚の数十倍重いテーマを被せられちゃったんだね。
だから、生き残ったことが凄い良かったのか悪かったのか分からないけども、これが生きてて良かったって確認できることは、死というテーマに対して自分がどれだけ対応できるかにかかっているよね。それが確認できなかったら、死んでた方が良かったっていうことになる可能性もある。
(ビートたけし著『たけしの死ぬための生き方』新潮社 )